2005年07月17日

 これは吉川さんと友井さんの企画。はたから観察のみしたメモ。2日間、さいしょの聴衆になった役得もありだ。
 床にちらばった手近な楽器や鳴り物を、ほとんど直感的に選んで「鳴らしてみる」。そこがいい。もちろん絵をみて出す音であり、「なんていうか彫刻のこの感じ」、「絵の右側が何もない様子どうやったら…」といった謎かけのような言葉に応えて鳴らされる音。かといって、考えたり練習したりする時間はほとんど与えられず、むしろ鳴らしながら感じ考えるウェイトが大きい。響きと演じのどっちにもわたる中間で「奏でる」。
 それが音楽となり、聞いていて(もちろん奏でていて)楽しいのは、当然、バックボーンがあるからで、あれらの音楽はまぎれもなく彼の/共同を志向する彼の、作曲なのであって、偶然の音楽でも子どもの音楽でもない。こんなこと書き留めておきたくなるのは、「共同」の意味を問うことのないエセワークショップの横行が、最近ほんとうに気になるからだ。(品ぞろえの明晰な古典的ワークショップの話ではない。嘘の出会い系をうたうワークショップの話。例えていうなら、ディベート術を伝習するかのようにコンタクト・インプロを教えてるタイプのダンサー。ちょっと話がそれた…)
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 絵をみて何か言いたくなる気持ち、言葉がすぐ浮かばなくてももう少し探っていたい感じ、そういう「気持ち」を実感してもらうこと、そのための楽しいプログラムが練られていること。こども鑑賞クラブの根っこはその辺りに生えていなければと、最近信じてきた。
 どんなメロディ、どんな音のテクスチャ、そんなこと考える間に、絵と交感して奏でる(奏でようとする)自分と他者の音を聴く場が生まれている、こんな素敵な絵との対話があるのだと本当に驚いた。そして、そのプロセスに野村さんの作曲のメソッドや勘がエーテルのように行き渡る。口走り、沈黙する子どもたちの動きを、のせてく舟のような役割をつかみたいと思っていたことの、一つの上手な見本を野村さんに見る。もちろんマネなどできないけど、他の方法でも働きかけできる領域はあるのだと確信できた。音楽家に習った。うれしいな。
 こんな風に思うのには下地があって、「色と線でお話し」する体験から作品鑑賞へと侵攻する、クレーの鑑賞シートとその授業を実践する濱口由美さんの発想を、順番にたどることをここ最近はしていたからだ。絵を読み取るスキルとしての表現活動に取り組み、そのベクトルに沿ってクレーを鑑賞しようとする構想を、実際の授業実践を目の当たりにして初めて、ぼくは納得することができたし、ぼくも生徒になって体験をした。
 なにか、話術とか授業のテクニックでしか届いてゆけないと思っていたことが、そうではなく自分の仕事として活動できる領域だとつかめてる感じがしてる。
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あとメモ
 偶然やありがちはていねいに避けてる、かといって、まっすぐ出てきた表現を決して却下しない、独特のバランス感覚。
 模範演奏・まね・交替・順番・入り方出方、など作曲家側の作法を誰にでもぽんと渡して反応がかえっている不思議さ− メソッドが行き交いながら子どもも西洋音楽やっている人も自然に開放感に身をゆだねているのは当の野村誠さんや林加奈さん自身が開放感や肯定感を自分のこととして大切にしている、それが伝わるからなんだろうな。
 唯一面倒なのはワークショップ慣れした気取り屋なのだろうが、確かに野村さんはうまい、だって野村さんだって場数を踏んでいるのだし、でもそんなことよりもっと本質的に、彼は「共同」の意味と方法をすごくクリアに論理矛盾なくつかんでるんだろうな、そう感じて憧れる。包容力があって、空気のように自分の考えを初対面の人たちに伝える、素敵な立ち居。(べたぼめだけど本当にこういうタイプのプレイヤーにぼくはなかなか出会わない。)
 みんなで詩を作る大原美術館の鑑賞プログラムのことも連想した。絵から言葉をつむぐ、それはたぶんルールを決めれば誰でもがとりくめる。だけどそれを「詩にしよう」という時に、岐路を通過しているはずで、詩のわからない人がリーダーではこれは成立しない、というと語弊もあるけど、「詩に触れさせた」と「ほんとに詩を生きた」の違いがある。その堰を操作するのは、方法論などではなくやはり芸術家の魂であり、個の感性的な体験を問題にしない鑑賞教育などあり得ない、結局ここにゆきつく…。

プレ・ワークショップ〈例えば、クレーの絵を音にすると? その一〉
2005年7月16日(土)、17日(日)13時30分-16時 美術館ギャラリー(1階)
対象:一般 参加無料
講師:野村誠、林加奈
→ 音楽「色、線、形、そして音」展
© 徳島県立近代美術館 2005-2009